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県内で色々な顔&型のシーサー写真を掲載しているHPサイトです。

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〒900-0031 沖縄県那覇市

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【 那覇市 】
壺 屋  首 里  久 米    東 町 
     楚 辺 
   
松 山  若 狭 
久茂地 
  小 禄 
 壷 川  
    奥武山    その他 
  場所が?の場合はその他に掲載です。   

news那覇市の歴史 「Netから掲載」

昔の那覇は、那覇川(現国場川)、安里川の注ぐ湾に浮かぶ島”浮島” でした。 1451年尚金福が長虹

堤を築いて那覇と崇元寺の前を結ぶに至って首里との交通の便が開け、泊や那覇港の繁栄につれて若

狭町、泉崎を含めるようになり、那覇四町(西、東、若狭町、泉崎)と呼ばれる町を形成するように

なりました。 「唐、南蛮寄り合う那覇泊」と歌われた那覇は、海外貿易の窓口として発展し、商都

としてにぎわいをみせました。9世紀に入ってからは西洋諸国の異国船が来航し、日本開国の前年の

1853年にはペリー提督が那覇に上陸しました。 1879年(明治12年)の廃藩置県により、那覇に県

庁が置かれたことにより、首里に代わって沖縄県の政治・経済・文化の中心地となりました。 同年

、泊、久米、久茂地を編入し、近代那覇の行政区域の基盤ができ、1896年(明治29年)特別区制の

施行により、那覇区となりました。 1903年(明治36年)土地整理事業の完了にともなって真和志よ

り牧志、小禄より垣花を編入し、さらに1914年(大正3年)には、壺屋を真和志村から、そして新た

に、埋立てた旭町を加え、また町名を設定して 24ケ町となりました。1921年(大正10年)5月20日

、特別区制が廃され、他府県同様の一般市制が施行され、那覇は、市となりました。 こうして沖縄

県の県都として栄えた那覇市は、太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)10月10日の大空襲で市域の

90%を焼失、さらに引き続く沖縄戦によって完全な焦土となり、多年にわたって築いたまちは灰じん

に帰しました。戦後那覇は、米軍の全面占領下にあり、立入禁止区域となっていましたが、1945年

(昭和20年)11月産業復興の名目で陶器製造産業先遣隊が壺屋一帯に入域し、1946年(昭和21年)

1月3日付けで糸満地区管内壺屋区役所が設置され、那覇復興が始まりました。 その後民政府などの

中央機関が漸次那覇に移転し、1949年(昭和24年)12月9日、米軍政長官シーツ少将は、那覇を沖

縄の首都とすると発表。 その後、旧那覇市街が漸次開放されるようになり那覇は、再び繁栄をとり

もどしました。 1950年(昭和25年)8月1日みなと村を編入、さらに1954年(昭和29年)9月1日、

首里市、小禄村を合併しました。 1956年(昭和31年)には、立法院で首都建設法が制定され那覇は

沖縄の首都として整備されることになり、1957年(昭和32年)12月17日には懸案の真和志市との合

併を実現していっそうの発展をとげました。1972年(昭和47年)5月15日、多年の要求であった祖

国復帰が実現し、日本国憲法が適用される中で、那覇は沖縄の県都として都市基盤が一層整備され、

今日人口31万、市域面積39.04kuの近代都市となっています。 現在、2008年(平成20年)に制定

された第4次総合計画「なはが好き! みんなで創ろう子どもの笑顔が輝くまち」に沿って、 21世紀

にふさわしい都市の実現に取り組んでいます。
     
 

主な年間行事(コロナの影響で現在2022年は一部開催です)

5月
那覇の一大イベント、那覇ハーリーはゴールデンウィーク(5月3日〜6日)に那覇新港埠頭で行われる。
10月
那覇大綱引き毎年10月の体育の日を含む土・日・月の3日間で開催されます。
11月
「琉球王朝祭り首里」は、古式行列、旗頭ガーエー、祝賀パレード、仕掛け花火などが行われます

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最終更新:2023/5/08
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